映画「アイルトン・セナ」DVD観て改めて思うこと。

森達也さんの「ドキュメンタリーは嘘をつく」っていう本、好きなのですが、その中に「映像を撮るという行為は極めて主観的な行為だ」という言があります。ドキュメンタリーは被写体・対象物をそれが存在するシーンから「客観的に」切り取ったものであろうはずは無く、作り手の「主観」が顕現するもの。作り手はそのことに常に自覚的でなければならない、云々。

映画「アイルトン・セナ」のDVD、某所のサンプル品ですが届いたので観ました。これで3回目ですが。。で。(多少このスポーツに関心がある人なら)誰もが知っている(つもりの)事実・映像をつないだ「ドキュメンタリー」がここまで観るひとの心をうつ作品になったのは、作り手のこのスポーツの深い理解・愛情・尊敬の念が顕現しまくっているからに他ならず・・と。

「知っているつもり」というのは、(当然ながら)未見のインプレッシブ画像が観るたび発見されるから。(トレーラーにも使われてますが)ロータス・イヤーズの初年ピット映像:ガレージに入るマクラーレン・プロストの背後・陽炎の向こうから姿を現すイエロー・ヘルメット。この後の出来事を暗示・凝縮の身震い秀逸ショット。事故後、慟哭のブラジルで、その体型・体重をとても支えられそうにないアンテナ(?)によじ登って葬列を見送るおじさんの表情。。。

ただ勘違いされやすそうですがこの映画、入念な「天才セナ礼賛」みたいなつくりには当然なっておりません。表面上(というかトレーラー上)欧州アリストクラシー・オーソリティーの弾圧に懊悩する天才セナ、という構図にはなってますが、90年日本GP後のロン・デニスの告白、ジャッキー・スチュアートのインタビューとか毀誉褒貶あり。92モナコとか「モナコ・マイスター」的な言及は皆無だし。93ドニントンも一瞬。まああれは「ギズモ」のおかげだから、ということかもしれませんが、、、そんなわけで(?)、3度目鑑賞でも「ピーク」はやはり91ブラジルでした。個人的にも何度も観ている(ような気がする)映像。でも、デビューからのこの「切り取り方」で魅せられるとこうも違うか。コンテクストの違いで映像の印象は全く変わることに今更ながら気づいた感じ。デビューからのあの濃密な時間をここまでに凝縮し、観る者を完全に「セナ目線」にする手法は見事。こんな顔をしてこんな眼差しで見ていたのか、と。。。サンパウロ/インテルラゴスの空の彼方に、セナとともに「神」をみる思い。印象深い映像を選りすぐり、美しい音楽を付して「人間・セナ」に迫る、そんな徹頭徹尾。

F1の映画化、セナの伝記映画制作の話は90年代から浮かんでは消え。勿論、Mr.Eとのライツ調整が大変なのは想像に難くありませんが、ボクシング映画のムキムキオジさんが結局F1を諦めて撮ったレース映画。溜息。その後アントニオ・バンデラスがセナを演じる映画制作という話も相当現実味を帯びた時期がそれほど前で無くあったように記憶しますが、結局こういうかたちで落ち着いたことはあらゆる人にとって(勿論ファンにとっても)幸せなことと思います。

村上さんがこの本で「現代アートとF1はコンテクストの理解が必要という点で共通点が」って書いてるのを読んでうまいこと言うなと思いました。「コンテクスト」に興味無いと、去年の最終戦ペトロフvsアロンソの終盤はみてても眠くなるだけ。でも本当にそれだけか?と。現代アートはともかく、少なくもF1は「コンテクスト」が好きで観はじめたわけでもなく。年々上がる?感情の閾値が下がったのか?と錯覚するほどに引き込まれるわずか100分のマジック・モーメント。
[PR]
by hatcho_bori | 2011-02-13 08:17 | 映画 | Comments(0)
<< @家電量販店 ROCKY JOE >>